フラメンコスタジオ「ラ・ブレリア」
スペイン在歴 20 年。老舗タブラオのトップダンサーと しての経験と実績をもとに本物のフラメンコを伝える
主宰
渡部 純子
本場で活躍する 日本人として注目される
バイレ(フラメンコ舞踊)との出逢いは衝撃的でした。それまでフラメンコを音楽として聴いたことはありましたが、踊りを初めて目にしたのは大学の2年生の時、スペインギタークラブの先輩たちに連れられて行った東京のタブラオ(板張り舞台のあるお店)でした。その瞬間、何故かステージでフラメンコを踊っている自分の姿が見えてしまったのです。「私がそこで踊っている、もうこれしかない、フラメンコを一生踊っていきたい」。そう思いました。3日後には東京・池袋にある佐藤佑子先生のスタジオの門をたたき、レッスンを始めていました。佐藤先生は厳しい方でしたが目をかけてくださって、ちょっと踊れるようになると先生の仕事に連れて行ってもらえるようになりました。「持ち曲1曲、衣装も1着」との私を「仕事だから、行くよ」という感じで。
スペインに渡ったのは1987年、踊り始めて5年ほどたったころです。スタートはフラメンコの本場、セビージャでした。午前中はスタジオでレッスン、午後は自分でスタジオを借りて自習です。夜はフラメンコを観にタブラオへ。フラメンコ漬けの毎日でした。フラメンコのメインは歌です。聴いて、聴いて、身体にフラメンコがしみ込んでくることで踊りは変わります。若気の至りではないですが、大変だと思ったことはありません。92年にバルセロナの老舗タブラオ「ロス・タラントス」でスペインデビューを果たすことができました。フラメンコの本場で活躍する日本人として注目され、地元のマスコミや日本のテレビにも取り上げていただきました。日本人の方もたくさんお店に来られて、「がんばってください」という言葉が、とても励みになりました。
世界の人が感動を 同じくする文化に
スペイン人の踊り手がたくさんいる中で外国人の私が仕事を得るのはすごく難しいことでした。バルセロナのリベラルで自由な気風が私を受け入れてくれたのかもしれません。
フラメンコは2 0 1 0 年、ユネスコの世界無形文化遺産に選ばれました。スペインだけのものではなくて、世界中の人が観て感動を同じくする文化になりました。
バルセロナで仕事を始めたころ、日本人でタブラオで踊っているのは私くらいだったと思いますが、今はたくさんいますし、日本で踊っているスペイン人もたくさんいます。日本人がフラメンコをリスペクトし大切にしていることをスペイン人もわかっています。
踊りたいという想いが 溢れ出す
2 0 0 8 年に20年ぶりに帰国し、今は、宇都宮市でスタジオ「ラ・ブレリア」を主宰しています。「ブレリア」はフラメンコ曲の名称。私が一番好きな曲で生命力に満ちたリズムです。このスタジオを拠点に本物のフラメンコを教え伝えていきたいと思っています。
フラメンコは歌とギター伴奏と踊りの3 つがお互いにフラメンコという音楽を共有しながら創り上げていくものです。踊りは一人で踊るものですが、踊りながらもバックミュージシャンとの呼吸や、お客様の反応を瞬時に感じ取り、その時自分はどう踊らなければいけないかを判断することがすごく大切なのです。自分だけ良ければいい、ということではないという事を、いつも生徒たちには話しています。
フラメンコは、本当に懐が深い。知っても知っても、もっと知りたくなる。知らないことがいっぱいあるのに、自分は知らない、早く知らなきゃって。それが、フラメンコを続けられてきた理由かもしれません。健康にも恵まれました。日本に帰って来てからも、私にフラメンコを習いたいと言ってくださる方がいるということも力になっています。
バイレを初めて目にした時の衝撃は、今も忘れません。まぶたの裏に踊っている自分がいるような。お客さんは舞台を見るものですが、あの時の私は、舞台の上からお客さんを見ている状態でした。フラメンコを踊りたいという想いが溢れ出すイメージ、それは今も変わっていないのです。