すみれ会

すみれ会 栃木県女性経営者100人

陶芸家

一つの出会いをきっかけに陶芸家の道を歩んで40年これからも気負わずに自分の世界を追い求めたい

島田 恭子

人生の転機となった陶芸展での邂逅

それは22歳の時のことでした。東京でOLをしていた私は、たまたま日本橋のデパートで開催されていた陶芸展にふらっと足を運んだのです。ちょうど益子焼の作家、瀬戸浩氏の個展が開かれていました。それまで焼き物のことも益子のことも深く知らなかったのですが、氏の作品に魅せられ、たまたま在廊していた瀬戸先生とお話をしたことが、私の人生を大きく変えるきっかけになったのです。よかったら益子へ遊びにいらっしゃいという先生の言葉を真に受け(笑い)、1週間後すぐさま益子を訪れました。

先生の工房を訪ねた後、益子の町を散策したのですが、大羽の里の秋の風景にとても感動して、「ここに住みたい。ここで陶芸をして暮らしたい」と強く思いました。東京に戻ってすぐ瀬戸先生に「弟子にしてください」と手紙を出したのですが、すでにお弟子さんがいるからと断られました。その時にくださった手紙が残っているのですが、若い娘の無鉄砲さをやんわりと諭すような優しい文面なんです。 

 それでも益子で暮らすことを諦めたくない私は、栃木県が運営する窯業指導所に入ろうと思い、東京の会社も辞めて益子へ移り住みました。というのも窯業指導所は栃木県出身者や県に関わりのある人でないと入れなかったんですね。なので、共販センターでアルバイトを始め、「私は益子に骨を埋める覚悟がある」とアピールし、入所を認めてもらうことができました。

試行錯誤の上で到達した独自の世界

 指導所を出た後、家業の製陶業を継いで、陶芸の仕事をしていた主人(陶芸家の島田緋陶志氏)と結婚しました。私も家業をやらなくてもいいということになり、主人の工房で自分の作品づくりに専念することができました。指導所を出たとはいえ、陶芸家としては本当にひよっこ。主人に「へたくそ」と言われながらも、自分の世界を求めて、自分にしかできないものを作ろうと作陶を続けました。子供が三人いますが、子育てしながらやってきました。 

 自分だけの表現を模索しながら、一つ一つ試行錯誤を重ねてきた結果、今の作品にたどり着きました。気がついたら、他の誰もやっていない独自の益子焼になっていました。作品のモチーフになっている桜ですが、思い返せば私の育った原風景には桜が常にありました。今ではさまざまな四季の花をモチーフにして作っていますが、やはり桜は特別な気がします。というのも日本人なら誰しも桜に対してそれぞれの想いがあると思うからです。私は自分の中にある桜への想いを作品に託します。すると、その作品を見たお客様はご自分の中にある桜の想いをもって作品を受け止めてくださる。作品を通して、作り手と受け手の間でコミュニケーションが生まれるのは、桜の文様ならなのではないかと思います。それに背景や花の色、合わせて入れるモチーフの違いなどで、どんどん世界が広がっていく深さもあります。

陶芸も着物のデザインも自分らしく続けたい

 作陶を始めてちょうど40年になります。99年から毎年日本橋高島屋で個展を開催し、今年で18回目を迎えましたが、それがご縁で着物と帯のデザインという新しい分野へもチャレンジしています。振り袖なら振り袖、訪問着なら訪問着と、最終的に仕立てられ、着付けられた状態をイメージして絵柄をデザインし、色を決めていきます。作陶がまったく一人での孤独な作業なのに対し、着物のデザインはいろいろな職人さんとのコラボレーションで進んで行きますが、これが本当に楽しいんです。難しいのは色決めなんですが、自分がこういう色にしたいと思って色見本を指定しても思うように出ないこともあります。ま、これは焼き物でも同じことで、焼く前と焼き上がりで色が違うわけですから、そこをどう見極めるか、ですね。友禅染めって本当にいろんな工程があって、たくさんの人が関わっているので、そういう職人さん達の伝統に培われた技を間近に体験できることも、私にとって大きな刺激になっています。

 陶芸のほうもこれからも自分らしく自然に、自分の思いを込めて、でも気負わずにやっていきたい。大好きなこの益子の里で、できる限り作り続けていきたいと思っています。

profile

茨城県桜川市出身。1978 年栃木県立窯業指導所卒業。
88 年日本橋東急にて個展(98 年まで毎年開催)。99 年
日本橋高島屋にて第1回島田恭子陶芸展を開催、今年で
第18 回目を迎える。2001 年日本橋高島屋にて「島田恭
子きものコレクション」を開催(以降毎年開催)。2004
年ニューヨークで個展開催。一男二女の母。長男長女も
益子と東京でそれぞれ陶芸家として活躍中。