すみれ会

すみれ会 栃木県女性経営者100人

呉服おぎはら

職人たちが魂をこめて産み出した品々 きものを通して日本の伝統文化を伝えたい

店主

荻原 葉子

一番が好きな父と 人並みを重んじた母

学生時代、私は家業を継ぐとは全く思っておらず、父も私に継げとは一切言いませんでした。しかし、私が大学を卒業した頃父が病に倒れたため、私は帰郷して父の仕事を手伝うようになりました。2003年に父が亡くなり、私が呉服おぎはらを引き継いでからすでに14年が経ちますが、今は亡き父や母の生き方や物事に対する考え方は、私の核となって引き継がれています。

現在私が店主を務める呉服おぎはらを創業したのは父でした。長野県生まれの父は戦前から高島屋の商事部に勤務し、満州で日本領事館や日本軍との商取引に従事していました。戦争が始まり、現地で召集された父はシベリア抑留を経て帰国し、親戚のつてを頼って宇都宮に来ました。当時は町の人のきものを集め、リヤカーに乗せて農村部に出向き、食べ物を交換して売っていたそうです。そして、昭和25年に呉服店を開業しました。

何事も急がない気性の母は豪雪地帯として知られる新潟県十日町の出身。「人並みが大切、それが人の幸せ」「夜はのの様(お月様)、昼はお天道様が見ているからズルしちゃだめだよ」とよく言っていた母と、一番が好きで、要領がよくせっかちな父。ふたりは対照的ではありましたが、良いものへのこだわりや人に対するサービス精神は同じ。母の「ひと手間かけて丁寧に仕事をしなさい、そして、次の人が使いやすいようにしなさい」という言葉は私の座右の銘です。

魂が宿る面白い作品に これからも出会いたい

父の仕事を手伝い始めてまもなく、大磯の展示会に出向いた私は染織作家の大脇一心氏、人形作家の辻村ジュサブロー氏、そして田畑喜八氏(現・日本染織作家協会理事長)らの作品と出会います。それは、心揺さぶられる出会いでした。「彼らの作品を扱いたい」私は父に申し出ました。鬼怒川の芸者さんなど花柳界の顧客が多い父にはかなわない、同じ商いはできないと思っていた私にとって、彼らの作品は私の目で選ぶ初めての品となり、彼らの珠玉の仕事の数々は私の審美眼を鍛えてくれました。さらに1994年には京都の帯匠、創業280年の誉田屋源兵衛とも出会いました。社長の山口源兵衛氏の妥協しないもの作りの姿勢とチャレンジ精神は、常に私に刺激を与え、お客様を魅了しています。

帯の織り手に、田村秀治郎という人がいました。初めて見た田村氏の帯は、生き生きとした鯉の三態が純金の糸で織られており、私は一目惚れしました。そんな田村氏をたたえる言葉があります。「名もいらぬ、金もいらぬ人は誠に始末に困るなり。この始末に困る人だからこそ、生きた魂結びの帯を織ることたがわず」織り手がこの世を去っても帯に魂が宿ることを「魂白」というそうです。田村氏は平成22年に他界されましたが、おそらく彼らのように優れた作り手は、ただ心から嬉しくて、楽しくて、喜んで作ってるのではないでしょうか。そんな作品が魂白の宿った「面白い」と思える作品であり、単に仕事がきれいなだけのものには魅力を感じません。ただ、人は好みがあります。そういう意味では作品にいいも悪いもなく、私にとっては面白いか面白くないかで全て決まっています。

父、私、そして息子へ ひと手間かけて次に委ねる

父が創業して67年。会社設立から56期目を迎えました。一昨年からは長男が家業に入り、現在リサイクルきものブティックを経営しています。息子はSNSなども活用して自分なりの方法で集客し、これまできものに興味はあったが着る機会がなかったという方々が多く来店されているようです。独立前、息子はあえて古着店で修行を積みましたが、そこで様々な品物に出会ったはずです。「専門店の人間は素材を知らなくてはダメだ」と言った父は工業試験所で学び、糸の組織までわかる人でしたが、息子にもぜひそこで学んだ経験を活かして欲しいと思います。父、私、そして息子と、それぞれが自分の信じる道を選び、きものを通じて日本の伝統文化の素晴らしさを後世に伝えていければ幸いです。

profile

1954 年宇都宮出身。昭和女子大学美学科卒業。2003 年 呉服おぎはら 代表取締役就任。仕事に妥協を許さない染織作家たちとの交流により、優れた作品への見識を深める。昭和女子大学 光葉同窓会 栃木県支長、宇都宮市北倫理法人会 会長(平成27 年度任期満了)

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