すみれ会

すみれ会 栃木県女性経営者100人

バラ工房

何百年も残るガラス工芸に携われる喜びと このお店を持てた幸せをかみしめています

オーナー

桑久保りつ子

子どもの頃から美術に親しみ 美大に行きたかった

私の父は農業機械のエンジニアでした。そのためか、当時にしては生活は比較的恵まれていたようです。私が小学校に入る前に父は独立し、宇都宮で自動車修理工場を興します。両親ともに芸術に関心が高く、絵や音楽が好きでした。床の間にはいつもなにかしら絵が掛けてあり、益子の浜田庄司先生とも親交があったと聞いています。また、父はジャズや映画音楽など洋楽が好きでした。そんな環境でしたから、私も美術の方面に導かれて行ったのでしょう。小学校3~6年生の時に出会った先生は美術や詩が好きな方で、大きな影響を受けました。そして、益々美術に関心が高まった高校時代を経て私は美術大学へ行きたいと思うようになりました。けれど、女が美術を学ぶことに寛容な時代ではなく、父に反対されて結局美大行きは叶いませんでした。私は短大へ入学し、東京で寮生活を送ることなりました。

美大断念の渇望で一念発起 海外の文化を吸収する日々

この時期の私は、美大行きが叶わなかった渇望があったのでしょう。一念発起して英語の勉強に励み、それは卒業後宇都宮に戻ってからも続きました。当時、東宝に勤めていた叔父がおり、映画のチケットを容易に入手できたため、私は映画館に通って2~3本立ての映画を一日中観ました。私は夢中になって映画から外国の文化を吸収しました。やがて、私に素晴らしい機会が訪れます。21歳の時、国際青年交流委員会の交換留学制度を利用して、3ヶ月間アメリカに留学する機会を得たのです。サンフランシスコからニューヨークまでを移動し、そのうち1ヶ月はインディアナポリスの家庭でのホームステイ。現地の子どもたちによる自由な陶芸作品を見る機会もあり、この体験は若い私に大きな刺激をもたらしました。

念願だった自分たちの店 苦しみを乗り越えた今

「バラ工房」というショップを開いたのは、5歳年上の夫との出会いがあったからでした。スカンジナビア航空で航空貨物のセールスの職に従事していた夫は海外渡航経験も多く、私に外国文化とのふれあいをもたらしました。北欧の美しいガラス工芸品をはじめ、美術が好きな夫とはよく海外の美術館へ行きましたが、私はパリの教会で見たステンドグラスに魅了され、帰国後いくつかの教室に通って自らも制作に没頭しました。それらの教室で様々な技術を身につけられたことは私の宝です。


夫の退職を機に、当時住んでいた東京の豊島区でガラスショップを開く計画がありました。ところが、計画通りにはいかないものです。私の母が体調を崩したのです。長女だった私は母の面倒をみるため、家族で益子へと移住しました。その2年後の1998年に益子でバラ工房を開店。北欧のガラス製品や、国内作家の作品を仕入れ、私はステンドグラスのオーダーを受けては工房で制作に励みました。


しかし、この頃から嵐のごとく様々な出来事が起こります。2003年に母が亡くなった直後、私はガンを発病。2回の手術を経て再び夫と店作りを再開しますが、すると今度は、2011年に夫が脳溢血で他界してしまいました。夫の死によって心にぽっかりと穴のあいた私は、なかなか立ち直れませんでした。さらにリウマチまで発症して車椅子生活に。お店を開けるどころか自分自身の食事や排泄までまならない有様です。「死にたい」。幾度もそう思いました。そんな私を支えてくれたのは娘でした。何につけても没頭してはヘトヘトになっている私を、きっといつもハラハラと心配しながら、見守ってくれていたことでしょう。2年ほどお店はクローズしていましたが、効果的な治療をもたらしてくれた医師との出会いにより、再び私はこのバラ工房に立つまでに回復しました。開店当初からのお客様も再び来店されるようになり、今私は大きな喜びと感謝でいっぱいです。正倉院の瑠璃杯のように、ガラスは数百年も生き続けます。私がこの世に存在しなくなっても残る、そんな作品を残していけたらこの上ない喜びです。

profile

真岡生まれ宇都宮育ち。10 代から美術や海外の文化に親しむ。結婚後、英会話の私塾を主宰。パリで出会ったステンドグラスに魅了され、ステンドグラス教室で研鑽に励む。1998年、夫と共にガラス工芸とステンドグラスのショップ「バラ工房」をオープン。

バラ工房